しがない大学生の万人のためにならない日記

《基本毎日更新》バイト先の先輩に真似て始めたしがない大学生によるしがない日記。気になったこととか今までの経験とか気になることとかの雑多ブログ。チャラくない大学生活がどんなものかとか気になる人にオススメ。 お問い合わせはパソコンの方は横、スマートフォンの方は記事下のプロフィールよりフォームにお願いします。

【震災の記憶②】3/11 あの時の自分を振り返る

今日は、千葉県に住む私がどのようなことをしていたのか、行動をとったのか、感じていたのか。お話したいと思います。

 

2011年3月11日は、私は小学四年生でした。その日は短縮日課であり、丁度帰りの会が行われる前だったと思います。最初は細かい揺れでした。その時点で先生が「机の下に入りなさい!」と言って、全員安全な姿勢を取ることが出来ました。この時の先生は落ち着いて、油断せず指示したのは凄かったなと今となっては思っています。

机の下に入ってしばらく細かい揺れでしたが、次第に非常に揺れが大きくなりました。棚から本が落ち、物が落ち、初経験する非常に大きな地震でした。やはり怖かったもので、全員が大きな悲鳴をあげていました。とにかく怖かったと記憶しています。揺れが収まり、教室の後ろに並んで校庭へ避難。避難訓練を行っていなければこの行動は不可能だったと思います。校庭へ避難すると、防災無線が鳴り響き、全員が校庭に避難している姿を見て「いつもと違う」と感じました。そんなことを思っているうちに大きな地震が更に起きました。茨城県沖で起きた震度6強の地震です。これも非常に恐ろしかったことを覚えています。

その後母が迎えに来ました。私の母は専業主婦だったため迎えに来たのが早い方でしたが、きっと共働きの家庭ではなかなか迎えに来ない人もいただろうなと思います。小学校から出ると、電気が止まっており、警察が手信号を行っていました。そして近くのスーパーやコンビニに人が殺到していました。私と母も当時は正気を失っており…絶対に必要のない食パン3斤を購入しました。「今考えたらおかしいよね」って母と話したこともあります。そのくらい人は追い詰められると変な行動に出てしまうものなのだと思いました。

家に帰ると物が落ちていました。幸いにも食器棚は扉が開かず、中で皿が割れているだけでした。しかし、重いブラウン管テレビが動いたり、CDプレーヤーが落ちていました。不思議な感じでしたね…そして電気が復旧するまでは車で過ごすということにしました。ちょうどその時はもう今も乗っているミニバンになっていたので、テレビを見ることが出来ました。津波が押し寄せ、市原の工場は燃え、その間にもずーっと緊急地震速報が鳴り響きました。次第に風が強くなり、地震なのか風なのか分からなくなりました。その日はほとんど眠れませんでしたね…1時間くらいだけ眠れましたけどね…トイレに行くのも怖かったです。また地震が起きるんじゃないかとビクビクしながら真っ暗なトイレに行ったことを覚えています。

私の住むマンションでは12日の朝3時頃に電気が復旧しました。母と2人で部屋に戻り、久しぶりに暖かいものを食べました。そしてその日の昼頃に父が東京から帰ってきました。電車は動いていませんでしたが、途中まで徒歩、その後電車で帰ってきたようです。まさに帰宅困難者だったわけです。当時は今ほど災害に慣れていなかったですから、みんなパニックだっただろうと思います。

 

実はそれなりに端折ってますが、だいたいこんな感じです。自分で書いて驚きなのが、10年経った今でもこれ程鮮明に覚えているんだということです。祖母は当時子供だった戦争の話をよくしてくれますが、やはり衝撃的なことは鮮明に覚えるようです。だからこそPTSDなどもあるのでしょうけど… 明日で震災についての話は一区切りになります。最後は、2021年の今、私は何をしなければならないのかという話です。