「無理」「分からない」と言うのはなぜ恥ずかしいのか
どもども。
塾講師をしていると、「もう無理です…」とか「全然わからないです」と言う生徒がいます。もちろん、それは良い事なのですが、この言葉を言いたがらない人も多くいます。
さらに、中学生だからまだ少ないですが、高校、大学生、大人と歳を重ねるにつれて、分からないと言うのは恥ずかしく思ってくるわけです。
昔は簡単に言えた言葉が言えなくなってくる…これはなぜなのでしょうか。
まず、分からない事は悪なのでしょうか?
知識を持っていないのは悪いことでしょうか?
不便なことには間違いありませんが、決して悪いことでは無いと思います。だって、皆さんも私も、まだまだ知らないことはあるわけです。その分からないことを分かろうとすることが大切なのではないでしょうか?
しかし、今の世の中、「わからないです」と言うと「なんでそんなことも分からないの?」とか、「もっと知識持てよ」とか言われるわけです。しかも、さっき言ったように「分からないこと≠悪」と分かっているにも関わらず言う人もいます。
それは、「自分が全ての基準だ」と考えている人が多いからだと思います。要するに、自分が知っていることは、相手も必ず知っている。自分が出来ることは必ず出来ると勝手に思っているからです。
そして、そのように、知らないことを否定されたらみなさんはどう思うでしょうか…
聞いたら怒られるから聞きたくないわけです。そして、聞くことは自分が無知で恥ずかしいのだと思ってしまうわけです。ただ、大人であれば、自分で調べたりする手段を知っているわけです。
しかし、子供はどうでしょうか…分からない問題があって、先生や親に聞いて、否定される…恥ずかしいし、嫌な気持ちになるくらいなら聞かないと思ってしまいます。子供の頃の記憶やトラウマは一生残ります。
こうして、「わからないと言うのは恥ずかしい」となってしまうわけです。
貧困のところでお話したことと似ていますが、恐らくこれも負のループになりやすいです。
親が「なんでそんなことも分からないの!」とばかり言い、それを子供が受けとり、またその子供へ…そして、そのように育てられた子供はきっと、「〇〇くんそんなのも分からないのー?笑笑」と言ってしまう。そうしてまた恥ずかしい思いをするわけです。
本当に恥ずかしいのは「わからないこと」ではなく「分かろうとしないこと」です。これほど恥ずかしいことは無いと思っています。
「聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥」
まさにこの言葉通りだと思います。勉強しないことは良くありませんが、自分の知識を自由に増やし、自由に聞けるような場所作りが出来るようになって欲しいなと思います。
もちろん、私もそのような場所を作る一員なのですが。
最近1日2記事更新をしてませんが、単純にテスト勉強で忙しいからです() それでも皆さんの毎朝7時半の日課にしてもらえるように頑張ります。
それでは「再见!」